大判例

20世紀の現憲法下の裁判例を掲載しています。

松山地方裁判所 昭和56年(ワ)32号 判決 1985年12月25日

原告

赤堀敬一

右法定代理人親権者父

赤堀睦

同母

赤堀照子

右訴訟代理人

矢野隆三

被告

日本赤十字社

右代表者社長

林敬三

被告

五石惇司

岡本博文

右被告三名訴訟代理人

饗庭忠男

徳田恒光

主文

一  原告の被告ら各自に対する請求をいずれも棄却する。

二  訴訟費用は原告の負担とする。

事実

第一  当事者の求めた裁判

一  請求の趣旨

1  被告らは、各自、原告に対し、金三一一七万八二二六円及びそのうちの金二九六七万八二二六円に対する昭和五三年七月三一日から支払済みまでの、金一五〇万円に対する昭和五六年一月三〇日から支払済みまでのそれぞれ年五分の割合による金員を支払え。

2  訴訟費用は被告らの負担とする。

3  仮執行の宣言

二  請求の趣旨に対する答弁(被告三名共通)

主文同旨

第二  当事者の主張

一  請求原因

1  被告らの地位

被告日本赤十字社(以下、日赤と略称する。)は、日本赤十字社法(昭和二七年法律第三〇五号)に基づいて設立された特殊法人であつて、その愛媛県支部の管轄に属する松山赤十字病院(以下、松山日赤という。)を経営しており、被告五石惇司(以下、被告五石という。)及び被告岡本博文(以下、被告岡本という。なお、右被告二名を示すのに被告医師らということがある。)は、いずれも、日赤の被用者で松山日赤に勤務する外科医師である。

2  原告が受けた診療の経過

(一) 原告(昭和四六年五月五日生まれ)は、昭和五三年六月初旬ころ突然けいれん発作を起こし、同月八日から松山日赤脳神経外科において診察を受けたところ、脳の血管障害の疑いがあるという診断であつたので、その検査を受けるために、同年七月二四日から松山日赤に入院した。

(二) 七月二八日、被告五石及び同岡本ら数名の医師は、脳血管撮影を実施するために造影剤を右頸動脈から注射器で注入しようとしたが、同頸動脈に注射針を穿刺することに失敗し、同日の脳血管撮影は中止された。

同月三一日、同じ医師らによつて右と同様に造影剤を右内頸動脈内に注入する方法で脳血管撮影が行われた。その結果、脳の血管障害はないと診断されて、同年八月二日、原告は松山日赤を退院した。

3  原告が受けた傷害と原因

(一) 八月二六日、原告の右眼に異常があることが発見されたので、同月二八日愛媛大学附属病院(以下、愛大病院という。)において検査を受けたところ、右眼網膜中心動脈閉塞症によつて失明していると診断された。

(二) 原告は、前記脳血管撮影実施の前に松山日赤で両眼の眼底検査を受け、そのときには両眼とも全く正常であつたことが確認されている。

また、その後失明が発見されるまで、他に、失明の原因となり得るような事態はなかつた。

(三) 原告の右眼の失明は、前記造影剤注射によつて右眼網膜中心動脈閉塞症をひきおこした結果である。すなわち、右に記した動脈の閉塞又は塞栓は、凝血片、薬剤に予め混入していた異物粒子、アンプルのガラス小片、滑剤粒子、ゴム小片、繊維片又は皮膚もしくは皮下諸組織小片などの微小異物が造影剤とともに血管内に誤注入されたことによる。

4  被告らの責任原因

(一) 一般に、脳の血管撮影は、安易に施行すれば高い頻度で種々の偶発症を惹起する虞れがあり、そのうち、失明に至る偶発症として、血圧下降、血管攣縮及び異物粒子の誤注入等による網膜中心動脈などの閉塞症があることは、現在の医学上の常識である。

(二) 原告についてなされた前記血管撮影(以下、本件血管撮影又は本件撮影ということがある。)の写真によると、原告の右眼動脈起始部に血管の閉塞を推測させる状況があり、右の撮影当日の午後五時ころには右の写真の読影検討が被告五石及び同岡本ら医師数名によつて行われたのであるから、右の被告両名としては、右のような状況から判断してさらに対光反射の有無及び眼底検査などの事後的検査ないし措置をすべきであつたし、仮にそうしておれば、血管の閉塞を発見してしかるべき措置を講ずることになつたはずであつて、適切な治療法が施行されてさえいれば、治癒していた可能性は十分にあつた。

(三)(1) 被告五石及び同岡本には、右に述べたような高い危険性を有する脳血管撮影のため造影剤注射を行うに際し、不手際があつた。

(2) 右の被告両名は、右に述べたような高い危険性を有する脳血管撮影に際し、右に述べたとおり血管の閉塞を疑わしめる状況でもあつたのに、事後における検査等何もせず放置していた。

(四) 右のとおりであるから、被告五石及び同岡本は過失により適切な診療を怠つた者として民法七〇九条により、被告日赤はその被用者がその事業の執行につき第三者に損害を与えたとして同法七一五条一項により、それぞれ、原告に生じた損害を賠償する責任を負う。

5  原告が被つた損害

原告の右眼失明は、自動車損害賠償保障法施行令別表等級第八級一の後遺障害に該当し、原告は、これにより、労働省労働基準局長通牒昭和三二年七月二日基発第五五一号労働能力喪失率表によると、一〇〇分の四五の労働能力を喪失したことになる。

(一) 逸失利益(二二九五万八二二六円)

<中略>

(二) 慰藉料(六七二万円)

前記後遺障害等級の保険金額の一〇〇パーセントに相当する額

(三) 弁護士費用(一五〇万円)<以下、省略>

理由

一争いのない事実

①請求原因1の事実(被告らの地位)並びに②昭和五三年六月初旬ころ、原告(昭和四六年五月五日生まれ)が突然けいれん発作を起こし、同月八日から松山日赤脳神経外科において脳血管障害の疑いという診断を受け、その検査のため、同年七月二四日から松山日赤に入院したこと、③同月二八日いつたん中止された脳血管撮影が、同月三一日被告岡本ら医師数名によつて造影剤を頸動脈から注射器で注入する方法で行われた結果、脳血管障害の疑いが否定され、同年八月二日、原告が退院したこと、④同月二六日になつて、原告の右眼に異常が発見され、同月二八日愛大病院の検査によつて、右眼網膜中心動脈閉塞症による失明と診断されたこと、⑤本件血管撮影前の眼底検査では、原告の右眼には異常がないと確認されていたこと及び⑥本件血管撮影当日夕方、被告五石及び同岡本ら医師数名によつて撮影した写真の読影検討が行われたことは、いずれも当事者間に争いがない。

二本件の臨床経過について

<証拠>を総合すると、以下の各事実が認められる。

1  原告は、昭和五三年六月八日、松山日赤脳神経外科で診察を受け、その際、半年くらい前からときどき頭痛がすること、三日前の夜九時に意識を失う発作が起きたがけいれんはなかつたこと、昨日左上肢に力が入りにくかつたこと、現在、後頭部に頭痛がすることを訴えた。脳波検査の結果、左右に差があり、右側脳に異常波の出現がみられたことから脳腫瘍の存在が推定されたが、その後のC.T.検査や脳シンチグラムによる所見等によつて、むしろ頭の中に限局性の血管異常があるのではないかと考えられるに至つた。

2  被告五石は、右の血管異常の有無を確かめるためには、右側の頸動脈撮影(右頸動脈から造影剤を注入して右脳血管を撮影する。)が必要であると判断して、その旨及び右の撮影に伴う危険性について、原告の母赤堀照子に説明した。その説明の内容は、右の撮影の必要性があること及びそれに伴う後遺症があり得るが松山日赤では従来そのような例のないことであつた。右照子は納得して、原告の小学校が夏休みに入つてから、右の撮影をすることになつた。

3  同年七月二四日、原告は松山日赤に入院し、同月七月二八日、第一回目の撮影が被告岡本らによつて局所麻酔の方法で試みられたが、原告の体動が激しく危険と判断されたために、麻酔剤の注射針を皮膚に刺入する段階で中止された。

なお、右撮影の前に行われた眼底検査では、原告の両眼とも異常は認められていない。

4  同月三一日、同じく被告岡本らによつて、今度は全身麻酔の方法で同様の撮影が行われた。その経過は、午前九時三〇分前麻酔午前一〇時全身麻酔の開始、午前一〇時二〇分血管撮影開始、午前一一時五分同終了、午前一一時二〇分麻酔終了である(なお、原告が麻酔からさめたのは同日午後四時ころである。)。

右の撮影は、麻酔マスクを使用した全身麻酔下で行われた。まず、血管の固定並びに血管の攣縮及び異常な反射を防止する目的で、局所麻酔剤五立方センチメートルを頸部に注入したうえ、マンドリン(注射針に挿入してある金属線)を持たない注射針で内頸動脈の穿刺を行い、右の注射針にチューブ(接続用)及び生理的食塩水を満たした注射器をつけて、動脈血を逆流させ(吸い上げるような結果となる。)て、右の注射針が動脈内に正しく刺入されていることを確認してから、右の注射針及びチューブ内の血液を完全に生理的食塩水に置換して、血栓を防止するため洗浄を行つた。その後、造影剤五立方センチメートルを注入して試し撮りを行い、正しく内頸脈に造影剤が注入されることを確かめてから、造影剤を各七立方センチメートル注入して頭部の正面及び側面撮影を行つた。撮影後は、約一〇分間、右の注射針によつてあいた穴を押えておく止血行為をして、麻酔剤を純酸素に切り換えた(この時刻が前述した同日午前一一時五分である。)。

同日午後〇時前には撮影したフィルムが現像され、被告岡本は撮影が成功したことを確認した。

5  同日午後五時前、被告岡本は、麻酔からさめた原告を診察し、瞳孔が左右同大であること及び対光反射のあることを確認している。同日午後五時過ぎ、松山日赤脳神経外科の医師五名(被告五石及び同岡本もその一員である。)で右の撮影の結果を検討したが、その際、原告の右眼動脈に閉塞様の所見があるという指摘がなされたものの、被告岡本は、右の確認した事実を前提として、かつ一般に眼動脈付近は血管の変異が多く発見されるところであるという認識もあつて、そのような意見を述べ、他の医師も右の所見が変異であるという考えに同調した。

6  右の撮影の結果、脳血管に異常が認められないということで、同年八月二日、原告は松山日赤を退院したが、同日自宅で、柱や机に頭をぶつけるということがあり、また、道を歩いている時に自転車にぶつかつていつたりしたこともあつたりした後(ただし、これらの事実が、視力障害を疑わせる態様のものであつたか否かは、必ずしも明らかでない。)、同月二三日父とキャッチボールをしていた際に複視を訴えている(ただし、これが複眼による複視であつたか否かは必ずしも明らかでない。)。同月二六日、原告は右眼の視力がないことを訴え、同日松山市内の高岡眼科で診察を受けた結果、右網膜視神経炎の疑いがあるということで、愛大病院を紹介され、そこで網膜中心動脈閉塞症による失明と診断された。愛大病院における診察経過は、ほぼ別紙六ないし七のとおりである(相違点は、八月二九日及び九月八日の視力欄の光覚弁とあるのが事実は光覚弁なしであつたことのみである。)。

三本件血管撮影と原告の右眼失明との因果関係について

1  <証拠>を総合すると、以下の各事実が認められる。

(一)  網膜中心動脈閉塞症については、医学上一般には次のようなものとして理解されている。

初発症状は急発する視力障害で、時により部位の不明確な眼部痛を訴えることもあるが、多くは疼痛もなく、突然に健康だつた目に急激かつ高度の視力低下を来たす。この視力低下の様子は灰白色、時には赤色など色彩を帯びた霧が視界をおおい、やがて暗黒になるという。視力は通常指数弁以下の高度障害を来たし、約二〇パーセントは光覚弁もなく完全な盲となる。瞳孔の直接対光反射は消失又は減弱する。視野は極く一部分を残すのみとなつていることが多い。

本症の眼底病変は発病からの時期により異なる。比較的初期(二ないし二四時間)では、網膜は乳灰白色の著明な浮腫混濁を示す。とくに黄斑部周囲に強く、中心窩のみは網膜内層の神経要素欠如のため円形の赤色斑点(日本人の場合は帯褐赤色のことが多い。)として見られ、cherry-red-spotと呼ばれる。右の乳灰白色の浮腫状混濁は多くは二ないし三週間で消失する。閉塞部より末梢の網膜動脈の内腔は不規則となり、著明な狭細を示す。一部の網膜静脈は拡張し、黒ずんで見えることがあるが、多くの場合は一見正常である。重症例では血流低下のため動脈血柱内赤血球の分節的移動又は動脈血あるいは静脈血の逆流現象を認めることがある。血流が再開すれば閉塞後数週間以内に動脈枝は閉塞前の状態にもどるが、しばしば不規則に狭細化し、動脈壁反射も亢進する。閉塞が高度な場合にはしばしば動脈の白鞘形成又は白線化を認める。また大部分の例では視神経萎縮が起こる。視神経の境界は比較的鮮明なことが多い。

網膜中心動脈閉塞症の原因としては現在では、(1)網膜中心動脈及びその分枝の痙縮による閉塞、(2)真の栓子による閉塞、(3)血管病変に血栓形成が加わつて生ずる閉塞が有力と考えられている。

(二)  医学上、一般には、脳血管撮影の合併症のうち、動脈穿刺自体によつてもたらされる場合の多くは、患者の当該部位の動脈壁に、病変、殊に動脈硬化症の病変が存在する場合で、穿刺によつて、右の動脈壁の一部が剥離し(動脈硬化栓子)、これが栓塞症をもたらすもので、したがつて動脈硬化症と通常結び付くものでない小児の場合には極めて稀有な例を除いて発症することは考えられないとされている。

しかし一方、その他の異物粒子が誤注入されて血管の塞栓をもたらす可能性は否定できず、例えば、本件では誤注入され得る異物粒子のうち、造影剤や生理的食塩水にあらかじめ混入されていたもののほか、凝血片、ガラス片(ガラスアンプル入り造影剤の場合)、繊維片(アルコール綿や空気中に浮遊しているもの)、滑剤粒子(手術用ゴム手袋装着の際使用される。)、ゴム小片(造影剤がゴム栓で密封された容器に入つている場合)、皮膚・皮下諸組織小片、空気等が考えられ、これらが造影剤や生理的食塩水に混入され、あるいは注射針(穿刺針)の中にあつて、誤注入された可能性がある。これらの異物粒子は、その大きさが一〇〇ミクロン(ミクロンはメートルの百万分の一)より小さな場合には肉眼では発見できないといわれている。

ちなみに、脳血管撮影の合併症としては、ほかに造影剤の影響が考えられるが、造影剤そのものが改善された現在では、使用法、使用量、適応さえ誤らなければ、危険な副作用はほとんど無視できるようになつている。

また、本件のような頸動脈撮影によつた脳血管撮影の場合、血管攣縮が発生する可能性は現在のところほとんど無視してよい。

(三)  本件撮影のような頸動脈撮影によつて網膜の動脈閉塞を来たしたという医学上の報告によれば、発症率は一〇〇〇分の一で、そのうちの五〇パーセントが視力について重篤であつたとされ、したがつて、他の合併症に比べて網膜の動脈閉塞の発症は少ないといわれており、その理由は、仮に動脈硬化栓子その他の異物粒子が誤注入されても、網膜の動脈への血流の状態の個人的特性のほかにさらに幾つかの条件が重なる必要があるからだとされている。網膜の動脈は、はじめ内頸動脈から眼動脈として分岐し、その際通常は内頸動脈の血流の方向に比べて逆流する方向に分岐するため、誤注入された異物粒子が眼動脈に入る確率は低いが、個体によつては分岐の角度がより緩やかであつたり、あるいは眼動脈起始部がふくらんでいるというようなことがあつて、そのような場合には異物粒子が眼動脈に入りやすいことになる。

また、小児の例についての医学上の報告はほとんど見当らない。

(四)  原告の本件症例にあつては、その失明は右眼網膜中心動脈及び後毛体動脈系の閉塞が原因であると考えられ、右閉塞が異物粒子が右の各動脈系まで進入したことによつて生じたとすれば、その原因として、眼動脈起始部の内径が長さ数ミリメートルにわたつて大きくふくらんでいる(漏斗状拡大)という血管の変異が影響したと考えられる。

(五)  原告は、前記のとおり、頭痛を訴えることが多く、また松山日赤においてはてんかんと診断されている。

一方、医学上、弾力に富む血管を有し、血管の過敏症(その例として偏頭痛、てんかんが挙げられる。)のある患者の場合に、網膜動脈にいわゆる単純痙縮を起こすことがあるとされており、そのことによつてもたらされる血行障害が長く持続すれば、綱膜の乳白色混濁と桜実紅斑がみられることになり、さらに痙縮の持続が長時間で反覆されれば、永続する視機能の障害があらわれ、視野欠損等が残ることもあるとされている。

もつとも、現在では、医学上、痙縮のみで閉塞に至ることは稀であるといわれている(動脈硬化を伴う例が多いということである。)。

(六)  次に、原告は、愛大病院で受診する二週間前に五日間にわたつて摂氏三九度以上の高熱があり、近くの小児科医院の診断では、扁桃腺炎とされている。

この点で、医学上は、頭蓋内動脈閉塞症が、満一歳ないし六歳までの幼児期に多く発生し、上気道感染、扁桃腺炎等の炎症性変化が動脈壁に波及した動脈炎によつて動脈閉塞を生じた例が多く報告されており、網膜の動脈も頭蓋内動脈と発生学的には同一であることから、原告の右眼網膜中心動脈閉塞症も同様の機序によつて発生した可能性は考えられる。

2  1で述べたところを基に、本件血管撮影と原告の失明との間の因果関係について検討してみる。

(一)  右因果関係を論ずる上で、原告の失明の時期の確定は非常に重要である。しかし、原告がいつ失明したかの点の断定は、容易ではない。すなわち、片眼(原告の場合では右眼)だけで物を視る、あるいはいわゆるウインクをするという機会がなければ片眼だけの失明を自覚できないままにいる場合も少なくないと考えられるために、本件撮影直後(通常は、血管閉塞後遅くとも一日以内に失明に至る例が多いといわれている。)であるのか、あるいは、原告が自覚したころであるのか、直ちに判断することは困難である。

前者であると仮定すれば、松山日赤退院後の原告の行動(前述)と符合するように見えるが、原告が愛大病院眼科受診当初(八月二六日)眼前手動弁(眼の前の手の動きが見えること)と診断されていること、後に血管が正常に復し網膜動脈に白鞘形成等がみられないことと矛盾が生ずるようにも思われる。もつとも、後の点についても、眼前手動弁に関しては、失明が不完全なものから完全なものに移行していつたと考え、白鞘形成の不存在に関しては、原告が小児で血管そのものが若く、かつ回復能力が高かつたと考えれば、説明もつく。

後者であると仮定すれば、逆に、愛大病院眼科の受診結果とはよく符合するが、松山日赤退院後の原告の前記行動との間に矛盾が生ずるようにも思われる。もつとも、後の点については、原告の右行動がはたして失明と結び付く性質のものといえるかどうか、証拠上あまり明確でない(逆に、原告法定代理人赤堀照子の供述には、原告が退院直後正常にキャッチボールをしていたとの趣旨のものもある。)ので、矛盾と考える必要はないともいい得る。

右のとおり、原告の失明時期の確定は困難であるが、あえて判断しなければならないとするならば、愛大病院眼科受診当初の所見等から考えて、後者すなわち原告が自覚したころであつた可能性の方が大きいと考えられる。その場合、松山日赤退院後の原告の前記行動は、仮に視力障害と結び付く性質のものであつたとしても、一時的なあるいは失明に至らない程度の視力障害があつたためと推定されることになる。

(二)  原告の失明の時期が本件撮影直後(遅くとも一日以内)であると仮定した場合には、原告の失明と右撮影との間の因果関係を断定するのは容易である。本件撮影が原因である可能性は否定できないのに対し、他の原因の存在をうかがわせる資料はないからである。

(三)  原告の失明の時期を原告が失明を自覚したころ(八月二六日ころ)と仮定すると、右因果関係が存在する可能性は(二)の場合に比し低下する。しかし、この場合も、右因果関係の存在を認めることは十分の合理性を有する。すなわち、本件撮影によつて生じた不完全な閉塞が、後の何らかの事由によつて突然に、あるいは、一時的な(一過性の)視力障害を伴いながら徐々に、完全に近い閉塞に移行して不可逆的な視力喪失をもたらしたと考えることには、十分の合理性を認めてよいと思われるからである。

(四) 原告の失明と本件撮影との間に因果関係の存在を認める判断が十分の合理性を有することは右に述べたとおりである。けれども、右因果関係の不存在の可能性(他の原因のみによつて原告の失明の生じた可能性)を否定することができなければ、医学上、因果関係の存在を断定することはできない(もつとも、因果関係の存在につき、医学上、一定以上の可能性が認められるが存在そのものを断定することはできない、という場合、訴訟上、因果関係が存在するものとして処理すべきか、存在しないものとして処理すべきかは、純粋に法律上の問題として、別個の判断の対象となり得る。)。ところが、この点については、1(五)、(六)で述べたとおり、原告に生じた網膜中心動脈閉塞の原因としては本件撮影以外にも考えてみなければならないものがあり、他の原因のみによつて閉塞が生じた可能性の大きさはどの程度か、はたしてそれを否定できるかについては、更に検討を要することになる。

(五) 以上の検討によれば、本件撮影と原告の失明との間に因果関係が存在する可能性は、十分に認められるが、その可能性の大きさをどの程度のものとみるべきかを決定するには、更に検討を続けることが必要となる。しかし、後に述べるとおり、被告らの責任は、右因果関係の存否のいかんにかかわらず結局否定されざるを得ないので、この点についてのこれ以上の検討は差し控える。

四被告五石及び同岡本の義務違反の有無について

1 まず、本件撮影の際行われた注射に不手際があつたとすることはできない。前述のとおり、本件撮影のような撮影をするための注射に際しある程度の異物の混入の可能性を排除することは、現在までの医学水準では不可能であり、しかも、本件撮影のため行われた注射に際し、被告医師らに特に不手際があつたことを認めさせる証拠はないからである。

2 次に、本件血管撮影後の読影検討の際、原告の右眼動脈起始部に閉塞様所見があることが指摘されたにもかかわらず、被告医師らがこれを異常なものとしてとらえなかつた点についても、①このような脳血管撮影において眼動脈(及びそれ以上の末端の動脈系)が造影される確率は、証人岩渕隆らの体験上も、一〇ないし二〇パーセントであること、②眼動脈系は極めて変異(奇形ないし破格)が多くみられるところで、したがつて個体差の非常に大きい箇所であること、③これらの点は脳神経外科の臨床医なら通常わきまえていることであること、④右の所見は眼科の専門医がみてもそれだけでは閉塞を示していると判断されるようなものではなかつたこと、⑤本件撮影直後、原告が完全に視力を喪失していた場合であれば、被告岡本がした対光反応の確認の際に異常が発見されていたはずであること、⑥後にも述べるとおり、脳血管撮影が小児の網膜動脈の閉塞をもたらすことは極めて稀であること、⑦先にも認定したとおり、原告は松山日赤を退院してしばらく後まで右眼の視力の異常を訴えていないことから考えて、これを被告医師らの注意義務違反と判断することはできない。

3  さらに、脳血管撮影後、眼底検査をしなかつた点についても、次の(一)、(二)の事実(これらの事実も、2に掲げた各証拠を総合して認めることができる。)を合わせ考えれば、これをとらえて被告医師らの注意義務違反とすることはできないものというべきである。

(一)  脳血管撮影後、眼底検査をする必要があるとする医学者もいないわけではないが、網膜動脈の閉塞は他の合併症と比較して発症の危険性が低いことから一般に現在の我が国の医療では行われておらず、しかも小児の場合の網膜動脈の閉塞の発症は、「天井が落つこちてくるんじやないかと心配する程度に珍しいこと」(証人岩渕隆のことば)である。

(二)  本件同様の症例については、被告五石の場合、過去松山日赤において満五〇歳くらいの患者が脳血管撮影の何日か後に視野に小さな黒点がみえると訴えた一例を経験したにとどまり、被告岡本の場合、同様の症例を経験したことがない(なお、いずれも成立に争いのない乙第七号証及び第二七号証によると、本件当時、被告五石の医師経験年数は一七年、同岡本は二年二箇月であつたことが認められる。)。

4  その他にも、被告ら医師の注意義務違反と評されるべきものは、本件全証拠を検討しても見出すことができない。

5 結局のところ、仮に、本件血管撮影と原告の失明との間に因果関係があるとしても、被告医師らに注意義務違反があつたと判断してその責任を追求するのは、現在の医療水準に照らして酷に過ぎるというべきことになる。

五結論

以上のところから、原告の被告ら各自に対する本訴請求が失当なことは、その余の点に関する判断をするまでもなく、明らかである。そこでこれを棄却し、訴訟費用の負担につき民事訴訟法八九条を適用して、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官山下和明 裁判官高橋文仲 裁判官橋本良成は転補のため署名押印することができない。裁判長裁判官山下和明)

自由と民主主義を守るため、ウクライナ軍に支援を!
©大判例